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作り手をたずねて

丸嘉小坂漆器店 漆硝子 – 後編 –

ものづくりのある日本の風景をめぐる旅。
今回の旅の行き先は、長野県塩尻市の木曽平沢。
「木曽漆器」の漆の伝統技法とガラスを融合させて、日本古来の美しい色彩を感じるガラスの製品を生み出す丸嘉小坂漆器店にお邪魔して、「伝統を守る」ことと、「現代の生活に合うものをつくる」こと、両方を大切に、挑戦を続けるストーリーを伺いました。(後編)

伝統を守り、革新を続ける、木曽漆器の物語
「漆硝子・くつろぎビールグラス」を訪ねて、木曽の旅(前編)前編はこちら

前編はこちら

小坂玲央さん 伝統工芸師 一級家具製作技能士

丸嘉小坂漆器店は、祖父の嘉男さんが1946年に創業。小坂さんの家系は代々、漆器店を営んできて、祖父の嘉男さんは次男だったために家を出て独立したのこと。二代目の小坂康人さんはガラスに漆を塗り重ねられる技術を開発。三代目を務める小坂玲央さんは、長野県の技術学校で家具製作と漆技法を学んだ後、家具の製作会社での修行を経て2009年丸嘉小坂漆器店に入社。「企画・製造・販売をこなすスーパー職人目指して、日々精進中。」

小坂智恵さん 塗師

木工家具の製作を経て、木曽高等漆芸学院にて漆の技術を学ぶ。現在は塗りの作業に従事して、ガラスに繊細な柄を描くことを得意とする。

木曽の豊かな森林と街道沿いに発展した、曲げわっぱと木曽漆器

「木曽漆器」の生まれた奈良井宿や平沢は、江戸時代、京都と江戸を結ぶ中山道沿いにあって、多くの人が往来する宿場町として栄えました。
木曽は森林の割合が9割を占めるというほど。豊かな森林に恵まれた環境と、街道文化の中で木曽漆器は発展しました。

木曽平沢の隣は奈良井宿

<木曽平沢の隣は奈良井宿。昔ながらの宿場町の風情を今に残す街並み>

小坂玲央さん
「木曽漆器の歴史は、およそ400年。場合によっては600年とも言われていますが、基本的には、400年くらいが通説のようです。
木曽地域は、昔から材木が豊富で、秀吉の築城の盛んだった頃には、木曽ヒノキを中心として、木曽の木材がたくさん伐採されるようになり、一気に枯渇して足りない状況になってしまったそうです。

江戸幕府になってから、木曽は尾張藩の直轄地として、木曽の森林をしっかり管理しなければいけないということになり、勝手に伐採することを禁じるお触れが幕府から出されました。

「木一本、首一つ」 木を勝手に切ると、首が飛ぶ。
死罪というくらい厳しいお触れが出ていて、
「枝一本、腕一本」 という言葉もあるほど、容易に手が出せない状況でした。

その中で、この地域で木工の工芸品を扱っていた職人さんたちには、ごくわずかに木材が分け与えられていました。ただ、職人さんたちが使える材料が限られている中で、他の地域のように、ブロックで塊から木を削り出して器をつくるようなことが難しかった。
無駄に材料を使えない中で効率的に使える方法はないか、そこで作られるようになったのが、”曲げわっぱ”です。
“曲げわっぱ”は、木材を薄くスライスして材料を無駄にすることなく形を作れるという利点があります。塊からくり抜く“くりもの”ではなく、必然的に“曲物”が作られるようになった。
木曽はそれしかできなかったということはあるかもしれないですね。」

漆器店の立ち並ぶ通り

<小坂さんの工房では漆だけでなく、木工の製作も行う。かつてここでは漆の家具の制作が行われていたとのこと。(今も注文が入れば家具の製作も行う)>

なるほど。木曽で生まれた「曲げわっぱ」は、森林資源の豊富な木曽地域にあっても、材料を無駄にすることなく使えるように考えられて生まれた製品なのです。

小坂さん
「曲げわっぱをつくるのに、白木のままだと劣化が早いので、塗装をすると長持ちするということから、柿渋を塗ったり、良いものは漆を塗ったりするようになりました。
そして、漆を塗り始めると、次第に漆塗りの方に価値が見出されるようになり、漆器として発展していったという形です。」

今あるものを使って、いかに効率よく生産していくことができるか。
昔の人は、こうして、持続可能な森林資源の扱いを考え、生業を生み出しました。
今ある資源を生かし、最大限にその魅力を引き出す。木曽ヒノキの木目の細かさの特徴も活かされた美しい製品として、つくり続けられてきたのです。

工房の前に置かれた木屑

<工房の前に置かれた木屑。近くの牧場主さんが牛の寝床に使い、その代わりに牛乳をもらうという物々交換がされているとか。資源を無駄にしない営みが生活の中で息づく>

木曽漆器発展を生んだ、土の恵み

小坂さん
「さらに、木曽で漆器が発展したきっかけとなったのが、「錆土」にあると言われています。

明治初期、木曽漆器の職人さん達が輪島に視察に行きました。
輪島塗りの特徴は、「本堅地塗り」という技法で、輪島地の粉という輪島でしか取れない珪藻土を下地に混ぜて使うことで、強度な塗りの下地が作られると言われています。
木曽漆器の職人さんたちも憧れをもって輪島に視察をしたのですが、木曽に帰ってから輪島地の粉に似たものが木曽でも手に入らないかと探ったところ、
木曽では「錆土」という鉄分を含んだ、地の粉によく似たものを発見しました。

それまでは、木地に漆を塗り重ねるだけだったところを、「錆土」と漆を混ぜ合わせて下地をつくり、上から塗り重ねる技法を生み出したことで、丈夫な漆器を作れるようになったのです。」

このようにして、木曽漆器は発展して、日本有数の漆器産地としてその名が知れ渡るようになりました。

顔料で様々に色の配合された漆の材

<顔料で様々に色の配合された漆の材>

工房の前に置かれた木屑

<漆を塗る刷毛は、なんと女性の髪の毛から出来ているそう>

工房の前に置かれた木屑

<錆土。サラサラとして粒子の細かい土>

工房の前に置かれた木屑

<ホワイトボードに描かれた工程。本堅地塗りは、強度が増して丈夫になる。何十工程と塗り重ねていくので高級なものになる>

産業の課題と、これからのこと

小坂さん
「どこの地域でも同じ悩みかとは思いますが、伝統工芸は存続させていくことが厳しくなっている時代。産業は川上の方から厳しくなっている。漆の場合は、道具を作る職人さんが全国に1軒しかありません。工房によっては、刷毛から自分で作る人もいますが、なかなか私たちはそうも出来ない状況です。

道具と材料の問題が深刻ですね。地域の分業帯では、最初の木地を作る職人さんが一番少ない。下請け制度となると、どうしても下へ下へ叩かれてしまうのが構造上の問題で、なんとかそこを変えていきたいと感じています。

うちの場合は、ガラスに漆を塗るという技術を先代が生み出してくれたおかげで色々なチャレンジができます。自分たちで企画を立て、売ることまで考えなければ仕事がなくなってしまうと考え一歩踏み出すことができたので、何とか今は生き残れている状態です。
地域のデザイナーさんともコラボが出来て、一緒に新しいものを作ったりすることが楽しいです。漆を使って、これまでとは違う分野にも踏み出して行きたい。

そして、それと同時に、新しいことをやり続けながらも、原点回帰したいという思いがあります。曲物でお弁当箱を作ったり、うちで出している「帯輪」というトレーのシリーズの木工の部分は、曲物の技術で木曽ヒノキで作っています。
この地域で、元々の曲物を作れる職人さんの数も減ってきてしまっている。
地域で継承されてきたものは自分たちの手で残していきたいと思っています。」

製作中の「帯の輪」

<製作中の「帯の輪」>

曲げわっぱと漆ガラスの技術が融合した作品

<曲げわっぱと漆ガラスの技術が融合した作品に>

漆の材料は貴重で、国内生産の漆は少なく、現状は漆の消費量の97%以上が輸入によるものと言われています。そこで、木曽平沢の「木曽漆器工業協働組合」が10年前に漆の植樹を始めました。産地をあげて、材料の確保ができるように取り組みをしています。

自然の恵み、木や土を使い、人の手によって美しい工芸品となり、またそれが土地の文化とともに発展してきた歴史。昔の人は、自然とともに生きる中で、限りある資源を使って価値を生み出し、生業をつづけてきました。
江戸時代は、循環型の社会が当たり前のように成り立ち、エコな時代だったとも言われています。
今の私たちの生活は、便利なものが溢れ、簡単にものが手に入る時代。限りある資源ということを、肌で感じることが少しずつ遠くなってしまったようにも思います。

これまでの歴史を受け継ぎ、貴重な資源でものづくりを行う伝統産業。ものづくりのストーリーを知って、作り手の思いや日本の豊かな風土を感じながら暮らしの道具を使えば、
ものを大切に扱うこと、そこから生まれる暮らしの豊かさを感じることができるような気がします。

奈良井宿

時間の流れをゆったりと感じる暮らしの風景

<奈良井宿。今も昔と変わらない宿場町の風情に、時間の流れをゆったりと感じる暮らしの風景>

今回は、丸嘉小坂漆器店でつくられる、漆ガラスの技法を使った「くつろぎビールグラス」を訪ねて、木曽の旅をご案内しました。
伝統を守り続ける産地と、伝統を革新させていく作り手の思いを知ると、
より使うものへの愛着が湧きます。
残していきたい、日本の工芸とものづくりの文化。これからも旅を続けて参ります。

文・撮影:さとう未知子

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